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 1-14 「動き」を言葉にするのは難しい


人は、自分の好まないことや困難なことから遠ざかろうとするものである。体育・スポーツの中でも動きを言葉として記述することや的確に表現することは難しい。同じ様な動きでもそれを表現する言葉は人それぞれで多種多様である。動きを統一した言葉で表すことは、体育学の歴史がある程度積み重なった今でも、まだ確立されていない。それどころかその方向すら見つからない。


この主たる原因は、運動学の分野では、著書や論文等の中にそのようなことが書かれていても学術的な評価が低く、啓蒙書としてしか評価されなかったことである。


古来より「技術」や「技」は、他人に説き明かすものでなはなく、秘密に自己のなかにしまっておくことが美徳であるとされてきた。日本では「秘伝」として弟子に伝える名人もいたが、そのままで終わった巨匠もいるといわれている。


動きを的確に表現するのはむつかしい。日本語だから難しいのかもしれない。逆のこともある。例えば、「スーッと」とか、「パッと」とかの擬態語を表現することの難しさや、英語なら一口で済むものも、日本語なら長くなることもある。また、「ターン」と言えば回転のことだが、それに「縦軸まわりに身体をまわす」などのような言葉を当てはめ、それが本当に適切であるかどうかを決定する作業は一人ではできないと考えている。それは、同じ体育学の中でも分野が異なれば言葉も異なるからである。動きに適切な言葉を当てはめるには、実際に運動を行う人、運動を教える人、人体解剖学を研究している人など沢山の立場からの意見を必要とする。


世界中の人たちが意思の疎通をするのに共通語が必要であるように、体育・スポーツの世界でも、日本人ならば共通に解るための専門語(技言語)をつくることが必要とされよう。そのためには、まず、選手がある動作に対して持つイメージを言葉にしてもらい、それをコーチや学者がまとめること、さらにそれらを繰り返し校正することが必要であろうと考えている。


なすべきことは沢山あろう。しかし、此の道を通らずして運動学の明日はないように思える。