「宏峯への道」目次へ戻る

 3-2 「無」について


人は、一般に「無」を「む」と読む。その意味は、雑念をとり払うこと、空っぽになり何も考えないことと理解されている。しかし、ちょっと違うのだと思う。即ち、「とらわれるな!」であることと解った。


それは、「無無明」という言葉に出会った時であった。世の中には、明らかでないことがたくさんあるけれども、そんなものにとらわれるな!という意味からである。また、「無無明尽」という言葉もある。このことは、「明らかでないことにとらわれないことをさとれ!」ということだ。これら二つの言葉が並べて書かれていることもある。


人は、自分の人生の中で、今日一日やこれから先々の生き方について、沢山の事柄について、多くの判断、即ち「如何に成すべきか」について問われている。こんなとき、自分自身を忘れて、他人の目や世間の目を気にして本筋から離れた判断をしている人が多いように思われる。特に、利害関係の中での判断に困り、目先の利益に走り、日々ギクシャクした憂鬱な状態を招いて、取り返しのつかぬ淋しい人生を送っている人が多くいることに気付く。自分の目先のことなどを追いかけては後からストレスも留るだろう。このような日々を過ごしている人には、指導者の資格は一生得られぬものと思われる。一日も早く、恥しさや卑しさを捨てて、正直に自分の信じる道を進むことを望んでいる。また、「無」即ち「とらわれない」ことの大事さを体験してほしい。


今日一日の出発の判断は、前日の反省にある。このことは、万人にとって大事なこと、もっとも大事なことはその尺度や密度である。